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AAS

2024/04/12(金)09:00:10.48(+X7coeI+c)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・092

 ミルティアデスによるアテナイ・プラタイア連合軍の陣形は、このようなペルシアの
戦いの逆手をとったものであった。その人員によって圧倒的に不利なアテナイ・プラタ
イア連合軍が、ペルシア相手に圧倒的な勝利を収めることができたのかについての考察
は後ほど行うことにして、戦いの推移を簡単に語れば。ヘロドトスによれば,「陣立て
を終わり、犠牲の卦も吉兆を示したので、アテナイ軍は進撃の合図とともに駆け足で、
ペルシア軍に向かって突撃した。」両軍の間の距離は,8スタディオン(およそ1500m)
であったという。「ペルシア軍はアテナイ軍が駆け足で迫ってくるのを見て、迎え撃つ
態勢を整えていたが、数も少なく、それに騎兵も弓兵もなしに駆け足で攻撃してくるの
を眺めて、「狂気の沙汰じゃ。全く自殺的な、狂気の沙汰じゃ」と罵っていた。しかし
、「一団となってペルシア陣内に突入してからのアテナイ軍は、まことに語り伝えるに
足る目覚ましい戦いぶりを示した。「マラトンの戦いは長時間にわたって続いた。」戦
線の中央部は、「ペルシア軍は、敵を撃破して内陸に追い進んだ。」が「両翼において
はアテナイ軍とプラタイア軍が勝利を収めた。」まさにミルティアデスが予想した通り
であった。勝利を得たアテナイと、プラタイアの両軍は、潰走する敵部隊は逃げるにま
かせて、両翼を合わせて、中央を突破した敵軍を攻撃し、かくて勝利はアテナイ軍の制
するところとなったのである。(ヘロドトス『歴史』巻6の113)ペルシア軍は2倍以上
の戦力をもっていた。にもかかわらず、なぜこういう帰結になったのであろうか。ペル
シア軍は、騎兵・弓兵・重装歩兵から構成されていた。ペルシアの重装歩兵の槍は、ギ
リシア兵の槍よりも短く使いやすいが,集団戦というよりは個人戦向きであった。その
ことを明確に述べているのが,第二次ペルシア戦争の前のクセルクセス王と前スパルタ
の王デマラトスとの対話である。

2024/04/24(水)16:02:33.65(QzOWcG8Q+)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・093

 そこでは、クセルクセス王は、「わしの親衛隊のペルシア人の内には、一時に3人の
ギリシア人を相手にしても、喜んで戦う。と、申し出る強つわもの者もいる。のだぞ」
と述べている。ペルシア軍は、騎兵で相手の両翼を攻めて中央に寄せ、そこを弓兵によ
って、相手方の損害を招き、士気を落としたところで、中央から撃破するというもので
あった。が、基本は個人の武勇に頼る個人戦であった。これに対して、ギリシア兵には
、「ホプロン」と呼ばれる 直径約80〜100cmで、つまり1m弱の 浅い鉢のような独特
の盾を持っていたのである。彼らの俗称が「ホプリタイ」と呼ばれていたのは、この盾
に由来していた。ホプロンは、腕と手の二箇所で支えるダブル・グリップ盾で、中央部
に取り付けられた。つまり握る通常の盾でなく、腕にバンドで取り付ける盾であった。
細長い革か、金属の輪によって左腕を肘まで通している。縁の部分についた紐あるいは
革の握りをもつようになっている。盾を前腕でしっかりと固定することが可能であった
。盾は身体の左側に大きく出て右側はかなり露出される。その露出された部分を、自分
の右側にいる人の盾に入れて守り、他方自分の盾で左側にいる人の身体を守り、自分の
右側を隣が守る。と言う戦法が行われた。こうして、おのずから隊列が形成されたし、
それが乱れない限り、兵士の身体はびっしりと蛇の鱗の様に、隊列は守られた。その上
に、利き腕の右の剣は自由にあった。更に彼らは鉄皮のお面と胸当て脛隠しと、かなり
鎧に近い姿で参加し、並んだ盾に守られていた。又剣は、腰にして、重装歩兵は直径約
1mの円形の木製大盾で身を守り,2〜3mもある長く太い槍を手にして攻撃する形で
あった。重装歩兵の密集陣に、個々ばらばらに突進して来た場合に、最前列の槍だけが
戦いの相手ではない。それを払いのけて盾で身を守っている最前列の兵を倒そうと近づ
いていくと、左からのみではなく、後列からも槍が繰り出されてくるのであった。

2024/04/24(水)16:03:00.75(QzOWcG8Q+)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・094

 これを防ぐのは容易ではない。ペルシア兵の槍はギリシア兵の槍よりも短いので使い
やすいが、こういう戦闘戦術に長けて、充分に防御され更に、計算された攻撃には不利
であった。幾重もの槍ぶすまを作っている密集陣を、突破するのは至難の技で、ペルシ
ャ軍には不可能であった。このギリシアの密集方陣の戦いとペルシアの個々の兵との戦
いの様子を、プラタイアの戦いについてヘロドトスが書いている。ペルシア兵は勇気も
力も劣らなかったが、ギリシャ人の様な堅固な武装を欠いた上に、戦法を知らず戦いの
巧みさでは、到底相手の敵ではなかったのだ。彼らは単身または十人、乃至その前後の
人数が一団となって飛び出してゆき、スパルタ軍中に突入しては、次々と討ち果たされ
ていったのである。(ヘロドトス『歴史』巻9の62)結局 これは組織的に構成された力
と、ばらばらな個人の力との戦いで、勝敗は自ずから明らかであった。数時間の戦闘で
ペルシア兵の戦死者は6400人であったが、アテナイ軍の戦死者は わずかに192名であり
、プラタイア軍の戦死者はそれよりも少なかったという。戦死者率は 30対1という、驚
くべき結果だった。この数値は,隊列を組んで平坦な地形で戦う重装備の槍兵の破壊力
のすさまじさを物語っている。ここで、大きな問題となってくるのは、ヘロドトスが、
両軍が対峙し、その距離が8スタディオン(およそ1500m)になった時に、「アテナイ軍
は進撃の合図とともに駆け足でペルシア軍に向かって突撃した。」と書いている。この
ことは、重装歩兵という名のように、その装備は,30kgから40kgと言われている装備で
。1〜1.5kmも走ったら,激突する前に疲労困憊に なっている可能性があるし、編隊
も崩れて組織的に構成された力を発揮するどころではない。という疑問が生じる。そん
な疑問に答えるような面白い記事が長田龍太氏の『古代ギリシア 重装歩兵の戦術』に
あった。

2024/04/24(水)16:03:21.10(QzOWcG8Q+)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・095

  重装歩兵の密集方陣の戦いが意味をもつのは,それが隊形を崩さず密集したまま、
整然と敵にあたる時である。コンピュータシミュレートで研究で、駆け足突撃によって
,隊列は最大で35%の、整然性を失う結果に至る。この戦い方では、威力はかなり失わ
れる。さらに興味深いのは、1973年に、10人の体育大学の学生を使った実際の実験結果
で、学生に6.8kg の装備と4kgの盾を持たせた状態での隊列を組み1kmの距離を走ら
せる実験が行われた。その結果では、誰一人として盾を胸の前に構えた状態で、78.5m
以上を走れなかったのである。274.3m の地点で隊列が崩壊し、最終的にゴール1,4km
に到達したのは、長距離選手ただ一人だった。翌年に同じ実験を繰り返したところでも>230m 地点で、隊列が崩壊し、完走者はいなかった。つまり人力からも予想できる結果
で、このことから考えても当時のアテナイの重装歩兵がいくら丈夫であったとしても、
実験に参加した体育大学の学生よりも、3倍から4倍も重い装備をもって、1,500m も
駆け足で突撃することは、例え超人であっても、土台無理なようだ。となると、これは
ペルシア軍とアテナイ軍と間違えて記述した可能性が高い。一方ペルシア軍の戦術は、
両軍の重装歩兵が衝突する前に、弓兵が多数の矢を射て敵兵に損害を与え、敵の中心を
叩いて意気阻喪させることであった。安藤弘氏は、『古代ギリシャの市民戦士』の中で
、実際の駆け足突撃は「敵の弓兵の射程距離( ほぼ180m)に、入ってから、始められ
た」と推定されている。体育大学の学生の事例を紹介されている長田龍太氏は,「当時
の突撃可能距離は,精々50〜100m 程度であった」と、推測されている 安藤氏がが言う>180m であっても、正直厳しいのではないか、と思う。当時のギリシアの重装歩兵は、
実地訓練を積み重ねていたので、長田龍太氏の推定のように、50mから100mぐらいなら
、隊形を崩さずに突撃できたのではないか。とは思われるが、弓矢攻撃の被害がそこに
あれば、障害物レースになる。とても考えられない。

2024/04/24(水)16:03:42.99(QzOWcG8Q+)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・096

 隊形を崩さずに突撃、突進し、弓矢攻撃の被害と、駆け足での体力の消耗や、隊形の
乱れを天秤にかけて、敵弓兵の攻撃による味方の損害が大きくならない絶妙なタイミン
グでの、駆け足突撃の距離は、あったろう。しかし、勝った理由は他ではないだろうか
。ミルティアデスの戦術は、この駆け足突撃だけでなく、ペルシア軍と陣形の長さを同
じにしながら、中央部分を極端に薄くし、両翼を厚くという陣形をとった。このことで
、多分充分に攻撃できる歩兵の弓隊を両翼に於いたのであろう。つまり、相手の弓兵の
効力を弱めるために、駆け足突撃を行い、比較的遠くに射る事の出来るボーガンを用意
したものと思われる。こうなると中央の鉄壁の隊列は多少弓が来ても届かない,その上
両翼から、凄まじい威力の矢が届いてくる。ペルシア軍の戦いが、中央を突破であるの
を想定し、だからこそ両翼を厚くして、騎馬隊が先行し中央の薄い守りを鉄壁に固めて
そこにペルシア軍を追い詰めて撃破する。つまり鶴の両翼で囲って、横から弓を射て、
騎馬隊が後ろに回って勝つことができたのである。両翼のアテナイ・プラタイア連合軍
は、防備も少なく、すり抜けて逃げる敵を追撃することなく、中央深く入り込んだペル
シア軍を両側から挟み撃ちしたのである。想定外の事態に、慌てふためいたペルシア軍
と、指揮官の号令一下で、まさに一糸乱れず戦ったアテナイ・プラタイア連合軍との差
は歴然としており,それが,数時間の戦闘でペルシア兵の戦死者は 6,400人,アテナイ
軍の戦死者はわずかに 192名という圧倒的勝利になったのである。日中の激戦で疲労し
ていたアテナイ軍であったが,重装歩兵は隊列を組んで山間の難路に向かった。8時間
の行軍だった。ペルシア軍が「残りの船の向きを変えて沖に逃れていき」「スニオン岬
を廻って船を進め」、アテナイ市に向かっていた。からである。ペルシア軍がスニオン
岬を廻っている一方,アテナイ軍は町を救うべく足の続く限りの速さで急行し、ペルシ
ア軍の到着以前に帰国することができた。そしてマラトンでもヘラクレスの聖域に布陣
したのであった。

2024/04/29(月)04:41:47.54(/okZLlIZI)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・097

 「古代ギリシャのホプリテス」の項目では、古代ギリシャにおける兵士の多くは、「
ホプリテス」と呼ばれる重装歩兵だった。ホプリテスという名は、彼らが使用した木製
の盾「ホプロン」に由来する。ホプロンは幅約1mもあり、青銅で覆われていた。と書
かれる。つまり、基本木製であり、青銅で覆った物なので、神社仏閣の腐れ止めにつけ
る薄膜の銅で、そんなに重くないだろう。又、戦闘に欠かせない高価な装備を、自前で
用意しなければならないため、ホプリテスは財産をもつ階級から選ばれた。とあるので
恐らく規格品があって、それに自分なりにフィットさせて使ったと思われる。アテナイ
のホプリテスは必要に応じて臨時で招集されたが、スパルタのホプリテスは、7歳の時
から厳しい訓練を受けたプロの兵士だった。と言うので相当な鍛錬をしていた。と思う
。又、完全装備の場合は、左腕にホプロン、右手には先端に青銅の穂先がついた2m級
の木槍(やり)を持つ。予備に鉄製の短剣を持ち、兜(かぶと)、胸当て、すね当て(
いずれも青銅製)まで装着する。これは学者は27キロにも及ぶ重装備だったというが、
先の実験でも、恐らく10〜15kgの軽い物であったろう。通常、ホプリテスは縦8列に
ぎっしりと並んで「ファランクス」という密集隊形を組み、一丸となって敵を攻撃した
。ファランクスは、古代において用いられた槍を持つ重装歩兵による密集陣形である。
集団が一丸となって攻撃するファランクスは会戦において威力を発揮した。最も古い、
ファランクス陣形、もしくはそれに似た隊形は、紀元前2500年ほどの南メソポタミアで
、確認できる。鎧の有無は不明だが、大盾と槍による密集陣形がこの当時から存在して
いた。その後、中東では複合弓の発明され、戦場の主役の座は弓兵となった。如何に、
丈夫で速く鋭く的確に射貫くかを極めたボウガンと弓矢であったろう。ピタゴラス同等
の知恵者が、命令によって開発された筈だ。それがしなりを歯車で変化させ、簡単に矢
をピン止めできた工夫があったのだろう。

2024/04/29(月)04:45:48.66(/okZLlIZI)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・098

 その後、紀元前 700年頃のアッシリアでも同様の隊形が用いられていた石版が、確認
できる。が、鎧兜を着用した重装歩兵を用いた ファランクスを大々的に用いたのは、
紀元前7世紀以後の古代ギリシアにおいて、ファランクスを構成していた一定以上の富
を持った、市民階級で使用した。当時の地中海交易の発達から、甲冑が普及していき、
重装歩兵部隊を編成することが可能となった。この頃出たのが、ライザー弓であろう。
ライザー(ハンドル)のついた弓である。似たものに、コンパウンドボウ(化合弓、稀
に複合弓と訳される)は、滑車とケーブル、てこの原理、複合材料など力学と機械的な
要素で組み上げられた近代的な弓とされた。実は複合弓は、弓の中に骨や金属が含まれ
、弓の弾きに相当な腕力が必要とされるものだった。しかし、このライザー弓は恐らく
土に弓の柄を突き足すもので、3人係りで弓を引いた逆弓構造だったと言われるものだ
。つまり、初期の投石器構造であった。M型に長く折り返しのある弦の中でV型の中央
の2本の弦の中に矢を置き、矢も又特殊で矢の真ん中辺りに、横に金属棒が短くあって
そこに弦を当てて、弦の糸を二人で引っ張って矢の羽根の後ろが、弓部に当たるまで引
いて離したのである。この仕組みは縦型だが横にすれば、ボーガンや投石器になった。
彼らは、マラトンの戦い、テルモピュライの戦い、ペロポネソス戦争などの重要な戦闘
で目覚ましく活躍した。が、その内戦争が進化し、より熟練した軍隊が誕生したりする
と、従来の重装歩兵戦術は次第に影が薄くなり、騎馬戦に変化した。このギリシャ時代
の、陶片追放(とうへんついほう)の制度で市民が僭主の独裁者になる恐れのある人物
を投票により国外追放にした頃から次の古代ローマ時代は、逆に独裁者を希求した時代
を創る、古代ローマ軍団(レギオン)は、共和政ローマとローマ帝国の最盛期(およそ
紀元前3世紀から紀元5世紀)にローマ軍の中核となると。彼らは職業軍人として定期的
に給与が支払われ、十分な訓練と支給を受けた。

2024/04/29(月)04:46:11.61(/okZLlIZI)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・099

 ローマ時代も軍団兵は、2mの投げ槍と重い剣を携行し、防具として兜、盾、胸当て
を装着した。同じ様に戦いでは横1列ごとに攻撃を仕掛け、槍を投げつけた後に剣を振
るって敵に襲いかかった戦法を行った。ローマ軍の敵に対する残忍さは、かなり強く、
伝説的にも、この残忍さを競って行わせた。又、軍団内部の欠陥に対しても容赦なかっ
た。「十分の一刑」と呼ばれる処罰では、違反をしたコホルス(歩兵大隊)の10人に、
1人を死刑にした。此の為、国の仕組みとしても、パンとサーカスの国とされるほど、
剣闘士の本物の死闘を見世物にした。その為、兵士たちは士気が高く有能だった。部隊
に同行する工兵は、長く続く道路、要塞、橋の建設に従事し、今日でもその遺跡が残っ
ている。当初は牛やライオンと 人間との闘いを見世物にしたが、その内政敵同志の、
公けな死闘ゲームまで見世物として 皇帝が認めたのであるが、それは、ずっーと後だ
。話をもどすと、ダレイオス大王が即位する以前に,ペルシアは、オリエント世界を、
統一していたが,ダレイオスの時代にペルシア帝国は,東は現在のパキスタンのあたり
まで西はギリシアのマケドニアにまでその版図を拡大していった。まさに超巨大国家で
あった。それに対し、アテナイはギリシアそのものが小さい上に、その中におさまった
国で、無数の都市国家に分かれている中の市民の数が数万しかいない小国家であった。
ハンセンによれば,「ペルシア帝国の予備兵のマンパワーはギリシアの20倍から50倍は
あり、支配下の領土は70倍〜100倍に達していた。」のであり このような「巨大な帝国
がとなりの小国を屈服させるのに失敗した例は、めったにない。」のであったのだが、
知恵と勇気と鉄剣で勝ったのであった。ここでローマ時代に移行する下地になった。

2024/05/02(木)15:24:46.88(JVzC5ND6w)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・100

 基本的にファランクス(盾の隊列戦法)は、激突正面に対し、衝撃力と殺傷力を保持
していたため、一旦乱戦になると転回機動は難しく、機動力を使った戦術としては、用
を為さなかった。そこで時代が下ると、会戦において数的劣勢にあった側はファランク
スに、改善と改良を加え、戦力を補完していった。テーバイの将軍エパメイノンダスが
使用した、斜型密集隊形はロクセ・ファランクス(loxe phalanx, 斜線陣)と呼ばれ、
レウクトラの戦いにて、勇名を轟かせたスパルタ軍を、数で劣勢にあったにも拘らず、
打ち負かした。実は、紀元前390年、アテナイの将軍 イフィクラテス(イピクラテス)
は、本来では補助戦力でしかなかった軽装歩兵(ペルタスタイ)を用い、レカイオンの
戦いでスパルタの重装歩兵を、機動力を活かして打ち破った。その経験を踏まえ、従来
の重装備の甲冑と短槍を装備したファランクスから、比較的軽装で、機動性を増した、
ベルスタイファランクスへと大きな軍制改革を行った。金属製の脛当てを廃止して、踝
までのブーツに変え、盾は、大盾から小型の盾を腕に装備するようにし、盾から紐を伸
ばして首にかけるようにした。鎧が、軽装になったことによる不利は、槍を3メートル
ほどの、両手で扱う長槍にかえて、リーチを延ばすことによって補完した。長槍を構え
ると、ちょうど盾が前を向くようになっている。この装備の変化は、後のマケドニア式
ファランクスに大きな影響を与えたと言われている。古代マケドニア軍は、縦深が8列
程度であった従来の密集方陣を改変し、2〜3m級の槍に対抗し、6メートルの長槍(
サリッサ)を持った歩兵による陣営で、16列×16列 の集団を1シンクタグマとして構成
させた。このシンクタグマが横に並ぶことで、方陣を形成させた。

2024/05/04(土)08:30:58.41(fYrBe1U+p)


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AAS

NG

 海上の金貨 ・・・・101

 何とも異様で重装備で歩兵に重い負担だが、このマケドニア式ファランクスの歩兵は
、イフィクラテスのファランクスの流れを汲み、対抗したと言われ、比較的軽装の鎧と
、首から架けて腕につける小さな盾を装備して戦っている。また、両手で長槍を支える
事ができるようになったのも効果が大きい成果を得た。しかし逆に言えばサリッサでは
、その長さと重さゆえに、両手でなければ扱えなかったのである。3年間テーバイで、
人質生活を送ったピリッポス2世は、軟禁生活で、試行錯誤して改良型ファランクスの
戦い方を勘案し、マケドニア式のファランクスを創始した。とも、言われている。マケ
ドニア式のファランクスが用いられた「カイロネイアの戦い」では、本隊の歩兵右側に
 常備の近衛歩兵を置き、左側へ徴募による軽装歩兵を配置した。右翼には突撃に勝る
ヘタイロイ騎兵、左翼にはテッサリア人騎兵を配置し、前衛は弓が主装備の歩兵と、軽
騎兵が担当した。左翼で防御している間に、右翼での敵戦列破壊を行う。マケドニア式
のファランクスは、側面からの攻撃に弱い。しかし従来のファランクスを、圧倒した。
このように片翼で守り、もう片方の翼を打撃部隊とする戦術は「鉄床戦術」と呼ばれる
。このマケドニア式のファランクスを以って、ピリッポス2世はアテナイ、スパルタ、
コリントス、等々の ギリシアの諸都市を打ち破り、彼の子アレクサンドロス3世は、
アケメネス朝ペルシアを滅ぼしたのである。その後、マケドニア式のファランクスは、
アレクサンドロスの後継者の座を争った。そしてディアドコイ(後継者)に受け継がれた
。ディアドコイ同士の戦いは必然的に、マケドニア式ファランクス同士の戦いとなり、
彼らは、槍をさらに長くしたり、防御力を上げるために鎧を重装備にする。などして、
他より優位に立とうとした。

2024/05/04(土)08:32:36.40(fYrBe1U+p)

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